飯田市でインターンシップを体験している尼崎市職員と交流しました 2017年6月13日

尼崎市職員インターンシップの現場から

                                  

 6月から11月にかけて、尼崎市職員の桂山智哉さんと前坂美樹さんが飯田市の公民館現場で働いています。

 6月13日(火)、新しい職員研修の形として、現場での取り組み状況を視察しました。桂山さんを受け入れている竜丘公民館主事の熊谷隆幸さん、前坂さんを受け入れている上久堅公民館主事の永田麻美子さん、飯田市公民館副館長補佐の氏原理恵子さん、長野県参与の船木成記さんも同席しました。

 

 尼崎市から飯田市への研修員受け入れの背景一方、尼崎市はかつてから企業の公害問題、外国籍住民との共存の問題、災害への対応(阪神淡路大震災)など諸課題が山積したまちで、そういう課題に向き合い解決に向けて取り組みを進める運動も展開されてきました。課題に向き合い解決に向ける取り組みはすなわち学びであり、そういう学びの歴史を改めて振り返り、そういう市民による学びを土台とした課題解決の取組みや取り組みに関わってきた人々と尼崎市の職員が結び付き、市民主体の課題解決の取組みを市職員が支える立場で協働することで、新たな尼崎のまちづくりを進めようと模索しています。

 2014年10月18日(土)から20日(月)にかけて飯田市で、「第1回解体新書塾~公民館・地域自治の在り方を問い直す自治体間共同研究」を開催しました。テーマは「職員の力量形成」、ここに尼崎市からも村山副市長をはじめとした幹部職員や若手職員14人が参加しました。さらに尼崎市は、日常的に市民と職員が協働してまちづくりを進める拠点として市内に6カ所設置された「地域振興センター」の改革に取り組み始めています。そこで市民との協働力を身に着けるための方法として、飯田市の公民館現場に地域振興センターに配属した職員を送り込むこととし、最初の派遣職員として6月より11月まで、2人の職員が飯田市公民館にインターンとして配置されました。 

 

 今回私とともに参加した船木さんは、長野県参与の立場とは別に、尼崎市職員の力量形成を担当する顧問も併任しており、二人のメンターとしての訪問が目的です。

 これまでの地域振興センターは、市の出先機関としての諸証明の発行や各種申請書の受付などの日常事務、地域団体からの要望を市に伝えたり、市の政策を地域に伝える伝達的な役割などが主で、市民と職員が協働して地域の課題に向きあい解決していくような役割を発揮できていなかったようです。

 飯田型公民館の特徴の一つは、公民館事業の企画運営を地域住民自身が主体となり、その取り組みを行政職員である公民館主事が支えるしくみにあり、飯田研修に参加した尼崎市の職員は、市職員である公民館主事と地域住民が一つの事業の企画運営を共に汗しながら進める様子に感銘し、このことも大いに参考にしながら、職員によるプロジェクトの検討の中で発案されたのが「みんなの尼崎大学」構想です。

 この取り組みの出発点として一昨年度から「みんなのサマーセミナー」が始まりました。「みんなのサマーセミナー」は、「誰もが先生、誰もが生徒、どこでも学校」を合言葉に、市民と職員による実行委員会が伝えたい人(先生)と学びたい人(生徒)をつなげる試みです。この取り組みをきっかけとして、市民と職員が協働し、学びを土台としてまちづくりを進めることをねらいとして始まったのが「みんなの尼崎大学」です。

 尼崎市はかつての人口55万人から45万人まで減少しています。このことにより歳入も減少し、自治体にとって最も大事な扶助費の削減にまで手を付けざるを得ない状況だったそうです。その中でどのように公共の福祉を実現するための自治体として再建していくかを模索されていました。

 上久堅食工房十三の里事務局長、塩澤幸子さんへの聞き取りから両地区の公民館主事には、あらかじめ人物の選任を依頼し、当日の聞き取りの際もファシリテータの役割を担ってもらいました。

 「中山間地域等直接支払推進事業」という制度があります。これは山間地など農業を営むには条件的に不利益な農家に対して、国が所得補償を行う制度で、所得補償を受けるためには希望する地域で組織を作り共同で申請することが必要です。

 この制度は基本的には個別農家の所得補償が目的ですが、上久堅地区では参加農家の合意の下、所得補償の一部を共同で積み立てて、地域の課題に投資する取組みを進めています。

 塩澤さんのお話の中で印象に残ったものを紹介します。

 「この仕事を始めてみて、人の口を預かることの大事さを改めて感じるとともに、私たちの作ったお弁当を待つ人がいるということに対する責任を感じており、それが取組みを続ける理由でもあります。」

 「私たちのお弁当を利用されていた人が先だって入院され、日を置かずに亡くなられたそうです。考えてみるとこの方は、亡くなる直前まで自宅で元気で暮らすことができており、そういう暮らしを支えることができたのかな、という思いも生まれました。」

 塩澤さんはもともと他地域で生まれ、結婚を機に上久堅に移り住み、会社勤めの夫の代わりに家業の花卉を中心とした農業に携わっていました。その頃は公民館活動などの地域の活動にはまるで縁がなく、農業一筋だったそうです。そしてせっかく地域で生きていくならば充実した楽しい生き方をしたいと考え、食工房十三の里の活動にも関わっています。 

 

 塩澤さんは読書が好きで、図書館上久堅分館の職員も長年勤めてきました。また、飯田市の女性枠の農業委員も務めており、聞き取りにおいても言葉遣いは豊かであり、そういう言葉遣いの背景には、読書を通した学びや、農業委員のような活動を通した社会を見る目の裏付けがあるのではないかととらえました。

 あるきっかけで農業を廃業することになり、たまたま上久堅自治振興センターの用務員としての仕事に就くことになり、そこで様々な地域の人たちと出会う中で、自身の社会が広がり、ここで生きていこうと腹をくくることができたそうです。

 「この活動の前に、自分たちの家族の暮らしがあり、そういう暮らしに寄せた力の残った力を、この活動に使う、という考えです。」

 「私も含めて参加する女性たちは皆、子育てがひと段落し、地域での役目も終えたメンバーであり、この活動が、自分が必要とされる場所であるととらえています。」

 「この取り組みを始めたのは、そこに住む人が年をとっても、元気でいれば上久堅は素晴らしい地域として暮らし続けることができます。そのための大事な手段として健康的な食事を提供することを考えました。」

 上久堅地区にはもともと食料品や消耗品を販売するJA上久堅支所の生活センターがありましたが、撤退し空き店舗となっていました。塩澤さんたちは皆で話し合い、その施設を借用し、この資金を活用して地元食材を使った加工施設をつくりました。

 塩澤幸子さんは地域の高齢者世帯にお弁当を届ける配食サービスに取り組む「食工房十三の里」の事務局長を務めています。

 今回の訪問では、尼崎市の職員が配置された上久堅公民館、竜丘公民館両地区で職員に対して影響力のある人物に研修の背景及び趣旨を伝えるとともに、それら人物の人となりを聞き取ることを通して、6月間の研修に向き合う際の視点を派遣職員及び受け入れ側の公民館主事がともに学ぶことを目的として実施しました。

 竜丘宮嶋聡子さんへの聞き取りから宮嶋さんと公民館との関係は長く、結婚後子育ての傍ら、同世代の女性たちとともに始めた子育てサークルが公民館活動に出会うきっかけでした。また、同時期に公民館コーラスグループに参加し、今も活動を続けています。

 講師の玉井さんから「自分たちが困っていることから始めよう」と投げかけられ、たまたま自分の身内の弔事の作法がわからず、そのことを意見したら同じ悩みを皆が持っていることが分かりました。そこで自分たちの経験を皆や次世代に伝えることを目的として、手作りで「人生儀礼」という冊子を作りました。 

 

 宮嶋さんが若いころは、飯田下伊那地方では「飯伊婦人文庫」という女性たちの読書運動が大変盛んであり、飯田中央図書館までたくさんの地域から女性たちが本を借りに行き、借りた本を地域の婦人会などで回し読みをし、同じ本を話題にして話し合いをしていました。そういう読書を通した学びの原体験が、宮嶋さんの言葉の豊富さの背景にあるのではないかととらえました。

 宮嶋さんご自身にとって印象に残っている公民館活動は飯田市公民館が竜丘地区をモデルとして実施した「モデル婦人学級」です。信州大学の教授であった故玉井袈裟男氏が講師で、市の社会教育課の職員として長谷部三弘氏が公民館主事側の中心として関わっていました。ここで受け身でない学び方を学びました。

 宮嶋聡子さんは現在、竜丘公民館民俗資料保存委員長やレガスピ交流と学びの会の副会長などを務めています。また地域のお祭り時又灯篭流しの運営にも関わっており、民生委員経験されています。

 竜丘伊原聡さんへの聞き取りから青年会の活動の中では「やりたいこともあるが、やらなければならないこともある」という先輩たちから言われた言葉を大事にしてきました。

 当時ベトナム戦争の時代であり、また、沖縄がまだアメリカの領土として、ベトナム戦争におけるアメリカ軍の拠点とされていました。こういう沖縄の現状を知るために、公民館と共催して青年団としての学習会を行い、地域の人たちからカンパを受けて、沖縄を訪問することになりました。

 その後公民館広報委員となり、紙面の作成を通して地域の課題を投げかける活動をされていましたが、当時の広報委員の中では、「公民館報は公民館活動の基幹事業である」という考えをもって企画編集に関わっていました。 

 

 伊原さんのお話も大変言葉が豊富で、その背景に読書や学びがあるととらえました。

 沖縄に仲間たちで訪問するためには当時で50万円ほどかかり、カンパもなかなか思うように集まりませんでしたが、自費で行くのではなくカンパで行くことに決めた理由は、カンパをしてくれた人たちの思いを背負って参加することと、そういう人たちに自分たちの経験を伝える責任をもって参加するためでした。この経験が自分のその後の人生を変えたそうです。

 青年会の活動の一つに図書館の運営があります。飯田市立図書館竜丘分館の選書や貸し出しなどが青年会に預けられており、本に親しむ環境がありました。当時の公民館主事からは、本を読むこと、学習することが大事というアドバイスがあり、高橋庄治の「ものの見方考え方」の読書会が特に印象に残っているそうです。

 伊原聡さんは飯田市時又で酒屋を経営されており、現在時又区長を務めています。時又生まれでいったん地元を離れましたが、22歳で郷里に戻り、青年会に入会しました。

 当時公民館が主催する地区の運動会の企画運営は青年会が中心で担っており、そういう活動を通して青年会運動に強く関わっていったそうです。お連れ合いも青年会で出会ったそうです。青年会を卒業した後は公民館広報委員や文化委員を務めました。また時又には伝統行事である初午祭りがありますが、この祭りに若い世代をつなげ、飯田市でも指折りの祭りに仕立てた中心人物でもあります。

 職員の力量県政研修としての尼崎市職員のインターンシップの取組みまた、受け入れる側の飯田市公民館主事にとって、尼崎市職員の受け入れを行うことを通して、自身の仕事の仕方、地域の見方など、自身の振り返りの機会となります。

 このように、現場での経験を市内他地域の公民館や他の自治体の職員も共有する機会を設けることを通して、広く自治体職員の機会とすることも有効ではないかと感じました。

 尼崎市から派遣された職員の存在を媒介とした例を紹介しましたが、私の現在の役割の一つである、県内の公民館をはじめとした県や自治体職員の研修を進めるうえでも、同様の視点や手法を活用することは、市民との協働力をつける研修として有効ではないかととらえました。

 

 ただし尼崎市飯田市の職員共に漫然と仕事をこなすのではなく、常に問題意識を持ちながら望むことが必要であり、そのためのメンターのような存在が不可欠です。今回の場合は船木氏の立場がそれにあたります。

 今回の訪問で地域のキーマンの話を通して、活動の土台に学びがあることを学んだり、キーマンの生き方の背景にあるものを聞き取る力をつける機会を設けたことも、尼崎市という他地域から飯田に訪れた職員がいることにより可能となった取り組みです。

 組織風土の異なる現場から派遣された尼崎市の職員が、飯田市の公民館現場で働くことを通して、これまで当たり前とされていた取り組みの価値や意味づけを行うことができます。